SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その142) ブログトップ

目覚め [はじめての『高僧和讃』(その142)]

(12)目覚め

 次の和讃です。

 「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し われらが無上の信心を 発起(ほっき)せしめたまひけり」(第74首)。
 「釈迦・弥陀二尊、慈悲の父母、いろいろ手立て尽くしては、われらを目覚めさせようと、つねにはからいたもうなり」。

 ちょっと思い切った意訳をしてみました、「われらが無上の信心を、発起せしめたまひけり」を「われらを目覚めさせようと、つねにはからいたもうなり」と。信心といいますと、ある特殊なこころをつくることとイメージしがちです。これまでになかったものを新たにこころの中につくりだすことと。しかし、何度も言いますように、信ずるということは気づきであり、むしろこれまでこころにあったものからすっきり解放されることです。それを目覚めとしてイメージしてみたのです。
 悪夢をよく見ます。何かをしようと一生懸命になっているのですが、一向に思うようにいかないという夢。たとえば電車である場所(どこだか定かではありません)に行こうとするのですが、駅(これまたどこの駅だか)の構内が複雑で、どうしても目指すホームに行きつけない。ようやく電車に乗ったのはいいが、どうやら乗り間違いのようで、目的地とはてんで違う方向に行ってしまう…。絶望的な思いのなかでもがき苦しみますが、あるとき突然目が覚め、「やれやれ、夢だったか」と胸をなでおろすことになります。
 目覚めるまでは、電車に乗ってどこかに行かなくてはと躍起になっていたのですが、目覚めることでそうした思いからすっきり解放されます。「あゝ、夢だったのだ」と。同じように、これまでは己れの力で人生を切り拓こうと必死になっていたのが、あるときすべては宿業によるのだと気づいて、そうした思いからすっきり解放される、これが本願に遇うということ、すなわち本願を信じるということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その142) ブログトップ