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慈悲に聖道・浄土のかはりめあり [『歎異抄』ふたたび(その44)]

            第5回 すゑとほりたる大慈悲心

(1)慈悲に聖道・浄土のかはりめあり

 第4章では慈悲(利他)が話題となります。

 慈悲に聖道・浄土のかはりめ(違い)あり。聖道の慈悲といふは、もの(ひと)をあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし(かわいそう)不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとく(思い通りに)たすけがたければ、この慈悲始終なし(終始一貫しない)。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる(一貫した)大慈悲心にて候ふべきと云々。

 この文章は読むたびに何か非常に後ろ向きな印象を与えます。われらの慈悲心などというものは高が知れており、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」としても「この慈悲始終なし」とバッサリ切り捨てられているように感じられます。慈悲心とはほんらい仏のこころであり、仏となってはじめて「すゑとほりたる大慈悲心」をもつことができるのだから、何はともあれ「念仏して、いそぎ仏となる」ことが浄土の教えだというのですが、これは今生で慈悲心をはたらかせようなどというのは無意味だと言っているのでしょうか。自分が救われることで精いっぱいで、他の人のことを考える余裕なんてないじゃないかと言うのでしょうか。
 もしほんとうにそうだとしますと、そもそも親鸞自身の生涯をどう考えたらいいのか分からなくなります。
 彼は35歳のとき承元の法難で越後に流され、それが許された後も京に戻らず、常陸に移ってその土地の人たちに本願念仏の教えを弘める活動をつづけましたが、彼のこの後半生をどう見ればいいのでしょう。いなかの人々に本願念仏の教えを伝えるのは仏弟子としての慈悲心のあらわれではないでしょうか。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」と言われ、「衆生を利益する」と言われますと、食べるものがなくて困っている人には食べ物を与え、着るものがなくて困っている人には着るものを与えることが頭に浮びます。それが大事であることは言うまでもありませんが、しかし仏教の本領はそうしたさまざまな苦しみの根源に迫ることにこそあるでしょう。

タグ:親鸞を読む
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