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師弟の対話 [『歎異抄』ふたたび(その80)]

            第9回 死なんずるやらんと

(1)師弟の対話

 第9章です。ここは唯円と親鸞の対話になっています。まずはその前半。

 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

 何の説明もなく、いきなり唯円の問いからはじまります。それに二つあり、ひとつは本願に遇うことができ、念仏を申す身となったにもかかわらず、「天にをどり地にをどるほどによろこぶ」こころが疎かになってしまったのですが、これはどうしたことでしょう、ということ。もうひとつは、本願に遇うことができたのですから、いつ死んでもいいと思ってもいいはずですが、いつまでもこの娑婆世界に恋々としているのはどうしたことでしょう、ということです。唯円は自分を正直にさらけ出して、日ごろ不審に思っていることを親鸞にぶつけています。ここからは心置きなく思ったことを言える師弟関係を垣間見ることができます。普通は、こんなことを尋ねてもいいだろうか、あきれられるのではないか、あるいはきついお叱りを受けるのではないか、などと躊躇するものですが、そういう心の隔てをまったく感じさせません。
 その問いに対する親鸞の答えも並大抵の師弟関係では考えられないものでした。「そうですか、あなたもその不審をおもちでしたか、実はわたし自身も同じ思いをしていたのですよ」と親鸞もまた己のこころのうちを包み隠さずに明かしています。この師にしてこの弟子あり、という何とも羨ましい限りの師弟関係と言わざるをえませんが、考えてみますと、己のこころのうちをあからさまにさらけ出すことができて、はじめて本願に遇うことができるのですから、浄土教の師弟関係にあっては当たり前のことと言うべきなのかもしれません。

タグ:親鸞を読む
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