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ただ弥陀の本願海をとかんとなり [「『正信偈』ふたたび」その23]

(3)ただ弥陀の本願海をとかんとなり

さて問題はどうして釈迦出世の本懐が阿弥陀仏の本願を説くことにあるのかということです。それを考えるために「わたしの願い」と「ほとけの願い」の関係について考えてきたのですが、もし「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」という「ほとけの願い」が釈迦自身の「わたしの願い」とまったく同一であるとしますと、釈迦は阿弥陀仏のことを持ちだす必要はありません、「若不生者、不取正覚」が「わたしの願い」ですと語れば済むことです。われらはそれを聞かせてもらうことにより、「ほとけの願い」がわが身にはたらいていることに気づくことができれば、「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」に生かされていることが感じられ救われます。

しかし釈迦は「若不生者、不取正覚」が「わたしの願い」ですとは語ることができません。なぜなら釈迦もまたわれらと同じく「わたしのいのち」だからです。釈迦はもちろん目覚めた人ということで仏とよばれますが(「仏陀」のもとの梵語は「buddha」で「目覚めた人、覚者」という意味です)、それ以外では普通の人と何ひとつ違わない一人の人間です。もし釈迦がわれらとは異なる何か超人的な存在でしたら、その教えはもう仏教とは呼べないものとなります。われらと何も変わらない人がある目覚めを得たからこそ、われらはその目覚めについて話を聞こうという気になるのであって、われらとはまったく異質の人でしたら、その目覚めもわれらとは無縁と言わなければなりません。

このように釈迦もまたわれらと同じように「わたしのいのち」であるとしますと、「ほとけのいのち」とまったく同一と言うわけにはいきません。先ほど「わたしの願い」と「ほとけの願い」は「不一不異」であると言いましたが、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」もまた「不一不異」です。釈迦の「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」と別ではありませんが(不異です)、しかし同一でもありません(不一です)。としますと釈迦は「わたしの願い」が「ほとけの願い」だとは言うことができず、「ほとけの願い」を弥陀の本願として説くしかありません。かくして「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり」ということになります。


タグ:親鸞を読む
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