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真実信心うるひとは [親鸞の和讃に親しむ(その19)]

9.真実信心うるひとは

真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ(第59首)

まことの信を得る人は、そのとき定聚に数えられ、浄土の籍をえたからは すでに仏と等しけり

第11の願、必至滅度の願を詠っています。信心をえるということ、すなわち本願に遇うということは、そのときに(すなはち)「定聚のかずにいる」こと、「不退のくらゐにいる」ことであると言われます。第18願成就文では「すなはち往生をえ、不退に住す」と言われていることが、第11願では「定聚に住す」と言われ、そこから往生と定聚と不退は同義であることが了解できます。要するに本願に遇うということは、「こんな自分がかならず仏となるべき身である」ことに気づかせてもらうことであるということです。そして「かならず仏となるべき身」であるということは、「もうすでに仏とひとしい」ということであり、それは「このままで救われている」ということに他なりません。救いは信心の「いまここ」にあります。ですから「臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心の定まるとき往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)です。

「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち」にひとしいということを考えてみましょう。

第55首において阿弥陀仏すなわち「無量のいのち」に「はじめ」はなく、それは永遠の存在であることを見てきましたが、「わたしのいのち」はどうでしょう。それにはもちろん「はじめ」があります。それは「わたし」がこの世に誕生して産声を上げたときですが、さてしかしそれに先立って母胎のなかですでにいのちを得ていたわけですから、受胎のときが「はじめ」であると言うこともできます。しかし考えてみますと、それもまた便宜上の「はじめ」にすぎず、さらにその「はじめ」を求めて先へ先へと遡っていくことができ、ついには「一切の有情は世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』第5章)というところまで行きつくと言わなければなりません。このように見てきますと、「わたしのいのち」は、あらゆるいのちをその内に包みこむ「ほとけのいのち」と切り離すことができず、「わたしのいのち」はそのままでもう「ほとけのいのち」にひとしいということにならないでしょうか。


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