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自力と他力(さらにつづく) [親鸞の手紙を読む(その109)]

(7)自力と他力(さらにつづく)

 日常語としての自力・他力でいいますと、われらはときに自力、ときに他力で、あるいはいくぶんかは自力、いくぶんかは他力で行動していますが、浄土の教えで自力・他力というときは、われらのなすことは隅から隅まで「自らのために自らの力を用いている(自力)」のですが、それが同時にすべて「他のためにはたらく力(他力)」によるのです。そして浄土の教えでいう自力・他力は誰でも客観的に確認できるものではなく、それに気づいてはじめて姿をあらわすものであり、さらには自力の気づきと他力の気づきは二つにしてひとつです。自力の気づきがあるとき、すでに他力の気づきがあり、他力の気づきがあれば、同時に自力の気づきがあります。
 としますと、「余のひとびと」の力を借りて念仏を広めようとはからうのは、「如来の本願力」に気づいていないのはもちろん、自らなすことはすべて「わが身をたのみ、わがこころをたのむ」ことであるという気づきもありません。その気づきがないままに「わが身をたのみ、わがこころをたのんでいる」のです。一方、「そのところの縁つきた」から「いづれのところにてもうつらん」とするのは、「如来の本願力」に気づいています。「すべては縁による」ことに気づき、「ご縁がありましたら」という姿勢をとっています。もちろん、「すべては縁による」と気づいたからと言って、何もしないわけではありません。わが意思で「いづれのところにてもうつらん」とするのですが、それもそうするよう促す力を感じてそうするのです。
 親鸞は本願に遇うことができたときに得られる利益を十あげていますが(現生十益、「信巻」)、そのなかに「諸仏護念の益」があります。これは、如来の本願力に乗托して生きるとき、諸仏がその人が道を誤らないよう見守ってくださるということです。とつぜんソクラテスのダイモニオンのことが頭に浮びました。ソクラテスにはときどきダイモニオン(鬼神のようなもの)の不思議な声がして、彼が何かをしようとするとき禁止の合図を送るそうです。「せよ」ではなく「するな」という合図であるところがおもしろいと思いますが、ソクラテスも何か不思議な力に護られていたのです。
 「そのところの縁つきた」から「いづれのところにてもうつらん」とするのも、何か見えない力に導かれていると感じているのです。

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