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我執という囚われ [「信巻を読む(2)」その116]

(7)我執という囚われ

まず阿闍世の父王殺害は「有にあらず」ということ。これは文字通り「存在しない」ということではなく、幻のようなもの、夢のようなものということでしょう。すなわち阿闍世が父王を殺害したのは、我執という囚われのなかにあって、いわば無我夢中になしたことであり、それから醒めてみれば、「あゝ、あれは狂乱状態のなかでやってしまったことだ」と感じられるということです。「慚愧の人はすなはち有にあらず」と言われるのは、慚愧の人すなわち狂乱状態から醒めて己のやったことがはっきり見え、その罪の重さにおののく人にとって、己の行いは我執という狂乱が引き起こしたことであると気づいているということです。

次に阿闍世の殺害は「無にあらず」ということですが、これは「無慚愧のものはすなはち無にあらずとす」とあることから分かりますように、これはまだ我執という囚われに気づいておらず、父王を殺害することも自らの意志により選択したことであり、その結果として王の座につけたのだと思っています。「果報を受くるもの、これを名づけて有とす」というのはそのことで、所期の果を得るために意図的になしたことですから、これは紛れもなく己の行いとして有ると思っているということです。かくして、我執の狂乱状態から醒めた人にとっては「有にあらず」ですが、まだそこから醒めていない人としては「無にあらず」ということになります。

では「またこれ有なり」とはどういうことでしょう。阿闍世は幸い囚われの状態から醒めることができ、そこからふり返って、あれは我執という狂乱が引き起こしたことであると気づいていますが、しかし、だからと言って自分がなしたことであるには違いなく、その罪は自分にあると感じています。そして慚愧の念のなかで、すべての責任を自分で負おうとしています。これが「またこれ有なり」ということです。さて、このように思えたとき、阿闍世に不思議なことが起るのですが、それが次の一段で述べられます。


タグ:親鸞を読む
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