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本文16 [はじめての『尊号真像銘文』(その82)]

            第7回 臨終のときにあらず

(1)本文16

 又曰「言摂生増上縁者、如無量寿経四十八願中説、仏言、若我成仏、十方衆生、願生我国、称我名字、下至十声、乗我願力、若不生者、不取正覚、此即是願往生行人、命欲終時、願力摂得往生、故名摂生増上縁」

 また曰く「摂生増上縁といふは、無量寿経の四十八願のなかに説くがごとし。仏ののたまはく、もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは、正覚を取らじと。これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく」。

 「言摂生増上縁者(ごんせっしょうぞうじょうえんしゃ)」といふは、「摂生」は十方衆生を誓願におさめとらせたまふと申すこころなり。「如無量寿経四十八願中説」といふは、如来の本願をときたまへる釈迦の御のりなりとしるべしとなり。「若我成仏」と申すは、法蔵菩薩誓ひたまはく、もしわれ仏を得たらんにと説きたまふ。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生なり。すなわちわれらなり。「願生我国」といふは、安楽浄刹に生れんと願へとなり。「称我名字」といふは、われ仏を得んにわがなをとなへられんとなり。「下至十声」といふは、名字をとなへられんこと、下十声せんものとなり。「下至」といふは、十声にあまれるものも、聞名のものをも、往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。「乗我願力」といふは、「乗」はのるべしといふ。また智なり。智といふは、願力にのせたまふとしるべしとなり。願力に乗じて安楽浄刹に生れんとしるなり。「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実浄土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。(本文17に続く)

「摂生増上縁といふは」の「摂生」とは、十方世界の衆生を誓願の中におさめとってくださるという意味です。「無量寿経の四十八願のなかに説くがごとし」とは、阿弥陀如来の本願を釈迦如来がお説きになっているということです。「もしわれ成仏せんに」とは、法蔵菩薩が、もしわたしが仏となるときには、と言われているのです。「十方の衆生」とは、十方世界のあらゆる衆生のことで、われらのことです。「わが国に生ぜんと願じて」とは、安楽浄土に生まれたいと願いなさいというのです。「わが名字を称すること」とは、わたしが仏となるときには、わたしの名を称えられようというのです。「下十声に至るまで」とは、わたしの名が称えられるのが、たとえ十声だとしてもということです。「下至」とは、十声以上のものも、ただ名を聞くだけのものも、同じようにきらわず往生させようということを表しています。「わが願力に乗じて」の「乗」は、「乗るがよい」ということ、また知るということです。知ると言いますのは、願力に乗せてくださることを知りなさいということです。願力に乗って安楽浄土に往生できると知るのです。「もし生れずは、正覚を取らじ」とは、誓いを信じた人が、もし真実の浄土に往生できなければ仏にならないと誓われたことばです。

タグ:親鸞を読む
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