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親鸞最晩年の和讃を読む(その77) ブログトップ

無知の知 [親鸞最晩年の和讃を読む(その77)]

(4)無知の知

 このことばから頭にうかぶのは、ソクラテスの「無知の知」です。ソクラテスはあるとき思いもよらない神託を受けます。デルフォイの神から「ソクラテス以上の智者はいない」というお告げを受けるのです。現代人のわれらとしましては、神のお告げなどと言われますと、何だかなあと思いますが、そこは紀元前5世紀に生きた人のことで、非常に重いものがあったのでしょう、ソクラテスはこの謎のことばの意味するものを探らなければならなくなります。
 そこでソクラテスは世に智者として名高い人たち(ソフィストといいます、ソフィアすなわち智慧のある人ということです)を訪ねては、さまざまな問題について問答をすることにしました。そしてその結果として彼が得たのは「この人たちは善とは何かについてほんとうは何も知らないのに知っていると思っているが、自分は何も知らないということを知っている。この一点で自分の方が智恵がある」(『ソクラテスの弁明』)というものでした。  
 これがあの有名な「無知の知」です。善とは何かについて具体的に問答をくり返していくうちに、ソフィストたちは最終的にソクラテスの問いに答えられなくなり、ほんとうのところは何も知らないことが明らかにされるのです。親鸞が「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」と言っていたことがこれです。
 もし世界そのものにもともと善悪の秩序がそなわっているのでしたら、世に智者として名高いソフィストたちがそれを捉えられないはずがありませんが、彼らもソクラテスの問いに答えられなくなってしまうということは、善悪の秩序というものは、人間の側が世界に持ち込んでいることの証左ではないでしょうか。人間の持ち込む善悪の秩序は、時により、所により、あるいは人によってまちまちですから、「みなもてそらごと、たわごと」と言わざるをえなくなり、ソフィストも答えに窮することになるのです。
 ソクラテスの「無知の知」が意味するのは、人知というものは世界のほんとうの姿(仏教では真如実相といいます)を見通したものではなく、人間が世界のなかでうまく生きることができるように世界に持ち込んだものにすぎないということです。

タグ:親鸞を読む
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