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イカロスの翼 [『ふりむけば他力』(その70)]

(9)イカロスの翼

 どうしてこんな事態になるのでしょうか。カントに言わせますと、それは理性が己の能力の限界を超えて思索の翼を自由に広げ過ぎた結果です。イカロスの話を思い出します。牢獄から脱出するために翼を得たイカロスは、父から「高く飛び過ぎてはいかん」と注意されていたにもかかわらず、喜びのあまり高く飛び過ぎ、太陽の熱で翼を肩に繫いでいた蝋が溶けてしまってエーゲ海に真っ逆さまというあの話です。理性はイカロスの翼と同じように飛べる高さに限度があり、それを越えてしまいますと、アンチノミーという災厄が待ち受けているのです。
 あらためて確認しておきますと、カントによれば空間と時間はわれらが世界を見るときにかける眼鏡です。空間と時間という形式を用いて、外からやってくる雑多な感覚データを処理し、われらの世界像をつくりだしているのです。ものを見たり聞いたりする経験はそのようにして可能になるというのがカントの見たてです。このように経験には空間・時間という形式がなくてはなりませんが、それにくわえて感覚データという内容がなくてはなりません。形式と内容の二つがそろって経験が可能になるのです。ところが理性は、感覚データの得られる領域を超えて思索の翼をどこまでも広げようとするところがあります。ギリシア以来の形而上学の歴史はそれを示しています。
 第一アンチノミーに戻りましょう。
 世界に時間的・空間的な初めはあるか、それとも無限かということでしたが、理性はこの問いに答えることができません。なぜならそれはわれらの感覚データの領域を超えているからです。ところが理性はイカロスのように安易にこの限界を跳び越え、われらの持っている形式(時間・空間という感性の形式だけではなく、これまでは触れませんでしたが、原因・結果の概念のようなさまざまのカテゴリーもあるとカントは言います)だけにたよって世界のありようを捉えようとします。そのときには、われらが知りうるのはわれらの眼鏡を通して経験できる世界(現象界)だけであり、世界そのもの(物自体)ではないという肝心なことが置き去りにされているのです。さてそうしますと、理性はもう何ものにも妨げられることなく、自由に世界のありようを構想することができます。
 かくしてある人は宇宙には果てがあるといい、またある人は果てがないと言いあって決着がつかなくなるのです。

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