SSブログ
「親鸞とともに」その53 ブログトップ

また百か日、降るにも照るにも [「親鸞とともに」その53]

(6)また百か日、降るにも照るにも

夢のお告げと本願念仏の教えのつながりをひと言でいいますと、性の欲求をもつことと本願念仏によって救われることとはまったく撞着しないということ、性の欲求をもったままで往生できるということです。これは一見何でもないことのようで、しかし親鸞にとってはとんでもなく重要な意味をもつことでした。比叡山では先にふれましたような欺瞞がまかり通っていた反面、数は少ないでしょうが、厳しい修行(たとえば千日回峰行などというものがあります)を貫く人もいますし、また法然もその一人ですが、一生涯、性のまじわりを断つ清僧もいます。そのような中で日々性的な欲求に押しつぶされそうになっている自分の姿をごまかすことなく見つめて生きるのはきついものがあったに違いありません。

そんな親鸞にとって、妻帯しなければならない宿縁があるならば、妻帯して念仏すればいいという教えは心の重荷を一挙にとってくれるものだったに違いありません。しかしほんとうにそうか、本願念仏の教えはそのあたりをどのように説いているのかを法然上人から直にお聞きしなければという思いで、急ぎ吉水の草庵に向かったのでしょう。そして恵信尼の証言によりますと、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大風)にも、まゐりて」、本願念仏の教えのぎりぎりのところを問いつづけたに違いありません。

かくしてついに「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」ことになります。そして「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに(まったく)後悔すべからず候ふ」という堅固な信心を得るに至ります。どうしてこんな途方もないことが言えるのかについて、親鸞はこう述べます、「そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と。この述懐のなかに、ここに至るまでの親鸞の苦しみがよくあらわれているのではないでしょうか。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その53 ブログトップ