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浄土の大菩提心は [親鸞の和讃に親しむ(その88)]

(8)浄土の大菩提心は

浄土の大菩提心は 願作仏心(がんさぶっしん)をすすめしむ すなはち願作仏心を 度衆生心となづけたり(第20首)

大菩提心なるものは、願作仏心にほかならず、願作仏心そのものが、度衆生心にほかならず

願作仏心とは文字通りに「仏になることを願う心」ですが、さあそれがそのまま度衆生心すなわち「衆生を済度する心」であると詠われます。自分の救いを願う心がそのまま衆生を救う心であるというのです。普通は、まず自分の救いを求め、それが実現した上で他の人を救おうとなりますから、両者は別であると思います。ところがそれがひとつであると言うのですが、これをどう考えたらいいのでしょう。まず自分、次いで他の人というのは、「わがちからにて」救いを得ようとする場合です。しかしいまは「浄土の大菩提心」のことが言われています。

明恵が『摧邪輪』で法然の『選択集』を批判するのに、真っ先に上げるのが「ここには菩提心がない」ということでした。仏教徒にとって「仏になろうとする心」をもつことが第一であるはずなのに、法然はそんなものは必要ないという、何という妄言か、というわけです。親鸞はその批判に対して、「われら凡夫はわがちからにて仏になろうとしてもできるものではない、それを憐れんで如来から菩提心が与えられるのである」と応じます。それが「浄土の大菩提心」であり、われらが菩提を願うより前に、如来からわれらの菩提が願われているのだというのです。

さてこのように菩提(救い)が如来から与えられる(願われている)ものであるとしますと、自分の救いと他の人の救いは別ものではありません。まず自分、次いで他の人というように分けられるものではなく、自分の救いが願われていること(願作仏心)は取りも直さず他の人の救いが願われていること(度衆生心)に他なりません。ただ、願作仏心も度衆生心も、それに気づいてはじめて姿をあらわすのであり、気づかなければ影も形もありません。ですから、それに気づいた人は、まだその気づきのない人に、早く気づいてほしいとこころから願わずにはおれません。


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