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『浄土論』という書物 [『教行信証』精読(その104)]

(2)『浄土論』という書物

 『浄土論』の正式名称は『無量寿経優婆提舎願生偈』で、無量寿経の教えにのっとり、浄土往生の願いをうたい上げる書ということです(優婆提舎とは「論」と訳され、経典の教えについて論じる書の意)。前半の「願生偈」において、浄土の相を、その国土、阿弥陀仏、そして菩薩衆のそれぞれについて讃嘆して、そこへの往生を願い、そして後半の「長行(じょうごう、散文のこと)」で、それをみずから解説して、菩薩は五念門(五種類の行)によって、五功徳門という果を得ることができることを説いています。
 ここに引用されているのは三つの文で、第1の文「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持をときて、仏教と相応せり」は、『浄土論』冒頭の「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命し奉りて、安楽国に生ぜんと願ず」につづく文であり、この書を著す意図を明らかにしています。第2の文「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」は、「願生偈」のなかに阿弥陀仏を讃える偈文の最後に出てくるもので、親鸞はこの文を『浄土論』の核心にあると捉え、さまざまなところでこれを取り上げています。そして第3の文「菩薩は四種の門にいりて、自利の行成就したまへり。しるべし。菩薩は第五門にいでて回向利益他の行成就したまへり。しるべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他してすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することをえたまへるがゆゑに」は、「長行」の最後(したがって全体の最後)にあるもので、自利の行と利他の行とが一体となって仏の悟りに至ることを述べて締めくくっています。
 さてこの書物を読むとき、いつも不思議な感じにさせられますのは、これを書いている天親はどの位置にいるのだろう、ということです。冒頭で「安楽国に生ぜんと願ず」と言っていることからしますと、「これから」安楽国に生まれたいと思い、そのために礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門を修めようとしていると思われます。ところが、読んでいるうちに、五念門の行はすでに成就して、その果である五功徳門をえているのではないかと思えてくるのです。「もうすでに」安楽国に往生していると。

タグ:親鸞を読む
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