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阿弥陀仏とは [「『正信偈』ふたたび」その11]

(2)阿弥陀仏とは

「南無阿弥陀仏」は「無量のいのち」であり、「無量のひかり」である「阿弥陀仏」に敬礼しますという意味であることが分かりました。ここで「帰命無量寿如来」とありますのは、「南無」を漢訳して「帰命」とし、「阿弥陀仏」を「無量寿如来(無量のいのちの仏)」と漢訳したものであり、「南無不可思議光」の方は、「阿弥陀仏」を「不可思議光(われらの思議を超えた光の仏)」と漢訳しているのですから、どちらも「南無阿弥陀仏」と変わりなく、「無量のいのちの仏」、「無量のひかりの仏」に敬礼しますと述べているのです。

さて「無量のいのちの仏」、「無量のひかりの仏」ですが、このように言われますと、どうしても仏像のような実体的なものを思いうかべてしまうのが普通です。ぼくは若い日々を東大寺が経営する学校で過ごしたものですから、仏と言いますとあの大仏(毘盧遮那仏)をイメージしてしまいます。ここで仏像の歴史をふり返っておきますと、もとは亡き釈迦を偲ぶよすがとして法輪や菩提樹、あるいは仏足石などが用いられていましたが、ヘレニズム(ギリシア文化)の影響を受け、ガンダーラ地方において人間の姿をした釈迦仏像がつくられることになります。これが仏像のはじまりですが、釈迦仏以外のさまざまな仏を構想し崇敬するようになる大乗仏教においてもそれぞれの仏の像がさかんにつくられ、そのなかで仏の実体化が進んでいったと思われます。

そこで考えたいのが「体と用(ゆう)」ということです。「体」とは字のごとく「実体」ですが、「用」とは「はたらき」です。

われらは、まず「体」があって、さまざまな「用」があると思っています。これはわれらのことばがそのような構造をしているからで、まず「主語」がきて、それに「述語」がつきます。「猫が笑う」(かどうか知りませんが)と言うとき、「猫」が主語で、「笑う」が述語です。「述語」だけで「主語」のない文もありますが、それは「主語」が省略されているだけと見なされます。このようなことばの構造から、まずは「体」があり、そしてそれにさまざまな「用」があるのであり、したがって何らかの「用」があれば、かならずその「体」があると考えるようになったものと思われます。「笑う」という「用」だけがあって、「猫」という「体」がないのは『不思議の国のアリス』の中だけです。


タグ:親鸞を読む
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