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本願力に気づく [「信巻を読む(2)」その35]

(11)本願力に気づく

しかし「東ニ病気ノコドモアレバ云々」ということばは紛れもなく賢治のことばとしてわれらの心を打ちます。そしてこれこそ真実のことばだと感じます。としますと、このことばは賢治から出てきたものであるのは間違いないないとしても、賢治が発信源であるのではなく、賢治はこれをどこかから聞いていると考えるしかありません。賢治はこのことばを受信して、それをわれらに伝えてくれているということです。賢治には「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)ということばもありますが、これもまた、ここに真実ありと感じさせることばです。そしてこれまた賢治がこれを発信しているのではなく、むしろ彼はこれを受信しているのであり、彼自身がこのことばに打たれているというべきです。

真実は、それがわれらの心を揺さぶるものであれば、われらからではなく、どこかむこうからやってくるということ、これが他力ということであり、それを如来の本願力とよんでいるのです。

自力の信か他力の信かについて考えてきました。そして、その信が正真正銘のものであるならば、自力ではなく他力であるという結論に至りました。しかし最後に念を押しておかなければならないことがあります。「自力の信」は問題ありませんが、「他力の信」ということばには思わぬ落とし穴があるからです。「他力を信じる」ということを「本願他力を信じて、それを頼りとする」と受け取りますと、それは他力ではなく自力になっているということです。「他力を頼りに生きる」のは実は自力です。先に「他力」ということばが出てくれば、その主語は如来でありわれらではないと言いましたが、「他力を頼りに」と言うときは、主語がわれらになっています。「われら」が他力を頼りとして生きるのですから、これは自力に他なりません。

では「他力を信じる」とはどういうことかといいますと、それは「本願が信心となる」ということです、信心となった本願に生かされていること、これが本願他力を信じるということです。

(第3回 完)


タグ:親鸞を読む
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