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『教行信証』精読(その54) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読(その54)]

(8)本文2

 かなり先走ってしまいましたが(すでに第十八願の領分にまで足を踏み込んでいます)、親鸞は浄土の大行が「無碍光如来のみなを称する」ことである所以を経典の上で確認していきます。まずは『大経』から。

 諸仏称名の願、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と。
 またのたまはく、「われ仏道を成らんに至りて、名声(みょうしょう)十方に超えん。究竟(くきょう)して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施(せ)せん。つねに大衆(だいしゅ)のなかにして、説法師子吼(ししく)せん」と。抄要

 (現代語訳) 諸仏称名の願といいますのは、『大経』にこうあります、「たとえわたしが仏となることができましても、世界中の諸仏たちがことごとくわたしの名を讃えて称えることがないようなら、わたしは仏とはなりません」と。
 またこうも言われます、「わたしが仏になりましたら、わたしの名が十方世界に広がることでしょう。もしそれが聞こえないようなところがあれば、わたしは仏になりません」と。また「衆生のために宝の蔵をひらいて、名号という功徳のつまった宝を届けましょう。つねに衆生とともにあり、真実の教えを説いてやみません」とも言われます。

 第十七願については、すでに先回りして何度も読みました。それにつづく文は、いわゆる重誓偈(じゅうせいげ)とよばれる部分の二つの偈文です(3と8)。重誓偈とは法蔵菩薩が四十八の誓願を述べ上げた後、さらにそれを偈としてまとめているものです。親鸞は第十七願の意味するところを補うものとしてこの二つの偈文を上げたのでしょう。「補う」の意味はもうお分かりでしょう。第十七願をさっと読むだけでは、ただ単に「わたしの名が諸仏にたたえられますよう」としか受け取られませんから、「諸仏の称名」は、「名声十方にこえ」て、「究竟してきこゆるところな」きようにするためであることを明らかにしようと、これらの偈文が引かれたということです。

タグ:親鸞を読む
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