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『教行信証』精読(その95) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読(その95)]

(8)本文3

 さていよいよ「易行品」からの引用です。

 またいはく、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致(あゆいおっち、不退転)に至るものあり。乃至 もし人疾(と)く不退転地に至らんと欲はば、恭敬(くぎょう、つつしみ敬う)の心をもつて執持(しゅうじ、しっかり持つ)して名号を称すべし。もし菩薩、この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の無上の悟り)を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。乃至 西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧あきらかにして照らすところ辺際なし。それ名を聞くことあるものは、すなはち不退転を得と。乃至 過去無数劫(むしゅこう)に仏まします。海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みなかれに従って願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きてさだめて仏にならんと。乃至

 (現代語訳) 仏法には無数の門があります。世間の道に難と易があり、陸路を歩くのは苦しく、水路を船でゆくのは楽しいものですが、菩薩のゆく道も同様で、一生懸命に努力して修行するものもありますが、信心という易しい手立てで、すみやかに不退にいたるものもあります。(中略)もしすみやかに不退の位に至ろうと思うのでしたら、あつく敬うこころをもって仏の名号を信じて称えるのがよろしい。菩薩がその身のままで不退に至り、仏の悟りを得ようと思うのでしたら、まさにこの十方の諸仏を念じて、その名号を称えることです。それは『宝月童子所聞経』の「阿惟越致品」に説かれている通りです。(中略)西方に善という名の仏土があり、その仏を無量明と言います。その智慧の光明は明らかで、照らすところ限りがありません。その名を聞くものは直ちに不退転の位となります。(中略)はてしない過去に海徳という名の仏がおわしました。現在のもろもろの仏たちはみな彼にしたがって願をおこされたのです。すなわち、寿命に限りなきよう、光明の照らすところに限りなきよう、国土が清らかでありますよう、そしてわが名を聞くものはかならず仏となりますように、と。

タグ:親鸞を読む
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