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目覚めは他力による [はじめての『高僧和讃』(その143)]

(13)目覚めは他力による

 さて目覚めは自分で起こすことはできません。目覚めようと思って目覚めることは不可能です。目覚めようと思うためには、いま夢の中にあると思わなければなりませんが、夢の中にあるときは、夢がただひとつのリアルな世界で、それが夢であるなどとはそれこそ夢にも思っていません。夢から覚めるのは「みずから」できることではなく、「おのずから」起こるしかないのです。夢から覚めようと思って覚めるのではなく、覚めてから覚めたことに気づくのです。
 しばしば経験することですが、悪夢から覚めてボーっとしていますと、妻が「うなされていたから、起こしてあげたよ」と教えてくれます。このように目覚めは自力ではなく他力によるのですが、本願に目覚めるのもまったく同じで、自分で目覚めようとしてできるものではなく、他力により目覚めさせられるのです。「われらが無上の信心を、発起せしめたまひけり」と詠われているのはそういうことで、釈迦・弥陀の善巧方便により目覚めさせてもらえるのです。妻の手が悪夢にうなされているぼくを目覚めさせてくれるように、見えない手が善巧方便となってぼくらを本願に目覚めさせてくれるのです。
 それにしても「自」はおもしろい文字だとつくづく思います。「自力」というときの自はもちろん「みずから」ですが、「自然」の自は「おのずから」で、同じ自という文字が真反対の意味をもっているのです。思い出されるのは『末燈鈔』第5通のいわゆる「自然法爾章」です。親鸞はそこで「自然といふは、自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ」と言います。自が「おのずから」という意味をもつときは他力をあらわしているということです。「みずから」をあらわす自が同時に他力も意味するということには深い感慨を覚えます。

タグ:親鸞を読む
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