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「わたしのいのち」の根拠 [「親鸞とともに」その18]

(18)「わたしのいのち」の根拠

われら煩悩具足の凡夫は「わたしのいのち」について不満、不足を覚え、「どうしてわたしが」と愚痴を言いますが、ここにわれらの苦しみの源泉があると言ってもいいのではないでしょうか。仏教では煩悩の代表的なものとして貪欲・瞋恚・愚痴の三毒を上げますが、この愚痴とは「真実に明らかではない」こと、すなわち無明を意味します。この無明という意味の愚痴から、「言っても仕方がないことを、あれこれこぼす」という意味の愚痴が出てきます。

「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」という無限のつながりのなかにあって、それに生かされていることに気づかず、「わたしのいのち」を「わたしのちから」で生きていると思い込み、それに囚われていること、これが無明であり我執です。「わたしのいのち」の存立の根拠は「ほとけのいのち」にあるのに、「わたしのいのち」はそれ自体として自立しており、その根拠は「わたしのいのち」それ自体にあると思い込むこと、ここから「どうしてわたしが」という愚痴が出てくるのです。

「わたしのいのち」の根拠は「わたしのいのち」それ自体にあるという思い込みがありますと、おのずから「わたしのいのち」を他の「わたしのいのち」と比較し競争することになります。そして自分が他より勝っていると思えば、それを誇りに思い、他より劣っていると思えば、それを恥ずかしく思います。個々の事柄で優劣を競い、一喜一憂している分にはさほど害はないでしょうが、ことが「わたしのいのち」の根幹に関わるような場合には、「どうしてわたしが」という愚痴は深刻なものになります。「どうして他の人ではなく、このわたしがこんなにひどい目にあわなければならないのか」と、人生そのものに敗北したような気持に陥ってしまうのです。

前に検討しましたように、このようなときです、「いったい何のために生きているのか」とか「いずれ死ぬのになぜ生きる」という問いがふつふつと湧きあがってくるのは(9)。「生きる目的」や「生きる理由」が見いだせなくなり、目の前が真っ暗になるのです。自分で「生きる目的」や「生きる理由」を与えなければならないのに、それができなくなっていることに愕然とするのです。


タグ:親鸞を読む
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