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行と信 [はじめての『尊号真像銘文』(その142)]

(2)行と信

 銘文の最後は親鸞の正信偈の一節です。ここで親鸞はみずからの文を解説するという、
他ではみられないことをしてくれています。
 取り上げられるのは全部で20句ですが、今回と次回に分けて細かく区切りながら読んでいきたいと思います。まず最初の4句ですが、この短い文に往生の行と信と証が凝縮されています。『教行信証』の行巻、信巻、証巻のエッセンスがここにあると言ってもいい。表にして整理しておきましょう。

 行巻(往生浄土の行)   名号(念仏)    第17願(諸仏称名の願)
 信巻(往生浄土の信)   信楽        第18願(至心信楽の願)
 証巻(往生浄土の証)   正定聚(必至滅度) 第11願(必至滅度の願)

 唯円が『歎異抄』第12章で簡潔に要約してくれていますように、「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」というのが浄土の教えですが、「本願を信じ」が「信」、「念仏をまうさば」が「行」、そして「仏になる」が「証」です(「仏になる」のは未来のことですから、現在で言えば「正定聚となる」となります。「正定聚」とは「かならず仏となる身」のことで、必至滅度も同じ意味です)。『歎異抄』の言い方では信(信心)が先で行(念仏)が後になっていますが、正信偈では(そして『教行信証』全体でも)行(名号)が先で信(信楽)が後にきます。どうということのないようですが、ここには思いを潜めるべき何かがあります。念仏(行)と信心(信)はどういう関係になっているのかということです。
 あらためて第17願を上げておきますと、「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずといはば正覚をとらじ」。要するに世界中の仏たちに念仏させたいということです。そして第18願は、「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれむとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」。これを要するに世界中の衆生に信心させたいということです。そして往生を願わせ念仏させたい。念仏は第17願と第18願の両方に出てきますが、17願では「諸仏の念仏」で18願は「衆生の念仏」です。さてこのふたつはどう関係するのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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