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男女貴賤ことごとく [親鸞の和讃に親しむ(その73)]

(3)男女貴賤ことごとく

男女貴賤ことごとく 弥陀の名号称するに 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)もえらばれず 時処諸縁(じしょしょえん)もさはりなし(第94首)

男女貴賤みなともに、弥陀の名号となえるに、行住坐臥もえらばれず、時も処もへだてなし。

誰でも、いつでも、どこでも、何をしていようとも南無阿弥陀仏を称えるのに支障はないと詠われます。『往生要集』の源信としては、「行として南無阿弥陀仏を称える」という色彩が濃厚ですが、それを受ける親鸞にとって南無阿弥陀仏とは「“無量のいのち”に帰っておいで」の声が聞こえ、その声に「“無量のいのち”に帰らせていただきます」と応答することです。「無量のいのち」をこころに憶念し、「無量のいのち」に生かされていると慶ぶことです。それは「行住坐臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし」であるというのです。正信偈に「すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天を覆へり」とありますように、われらは、すでに本願名号に遇うことができたとしても、あいも変わらず貪愛・瞋憎をかかえて生きています。順境にあっては貪りや愛欲にうつつを抜かし、逆境にあっては怒りと憎しみにわれを忘れてしまいます。しかしそんな状況におかれても「弥陀の名号称するに」何の障りもないというのです。

たとえば大病を得たようなとき。そんなときには「なんで自分が」と呪い、「こんなはずじゃない」と怨むものです。良寛さんは禅僧らしく「病むときは病むがよろしく候ふ、死ぬときは死ぬがよろしく候ふ」と言いますが、さてしかし病をえたとき、そう言えるでしょうか。「ああ、どうしてこのわたしが」と呪詛のことばが浮び上がってくるのではないでしょうか。しかしすでに「無量のいのち」に遇うことができていましたら、そのとき「“無量のいのち”に帰っておいで」の声が蘇ってきます。そして「無量のいのち」に生かされていることを想い起こすことができます。そうしてはじめて「病むときは病むがよろしく候ふ、死ぬときは死ぬがよろしく候ふ」と思えるようになるのではないでしょうか。これが「弥陀の名号称するに 行住坐臥もえらばれず 時処諸縁もさはりなし」ということに違いありません。


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