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利他回向の至心をもつて信楽の体とする [『教行信証』「信巻」を読む(その110)]

(2)利他回向の至心をもつて信楽の体とする

至心釈をふり返ってみますと、まず「われらには清浄の心、真実の心(すなわち至心)がない」ことが言われ、次いで「如来の心は清浄であり、真実である」とされ、そして最後に「如来はその至心をわれらに回施された」と述べられていました。すなわち、まずわれら(機)について述べられ、次いで如来(法)について説かれるという順でした。そこで、その順序について思いを廻らしたのでした、どうしてまず機で、しかる後に法か、と。そして、その順序で言われることで、言われていることがストンと肚に落ちることを確認しました。それに対してこの信楽釈では、まず如来のことが言われます、「信楽とは如来の心である」と。そしてそのあとに、「われらにはもとより清浄の信楽はない」と述べられ、至心釈と順序が逆になっています。

どうしてそうなるかは、第一段最後の「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」という一文に関係してきますので、まずこの文の意味するところを考えておきましょう。先に「至心の体は名号である」とされていましたが(第10回、4)、これは如来回向の至心(真実の心)のすべては名号のなかに収められているということでした。すなわち、南無阿弥陀仏という「こえ」のなかに如来の真実のすべてが収められてわれらに届けられるということです。さて今度は「信楽の体は如来回向の至心である」と言われますが、これも同じように、信楽のすべてが如来の至心のなかに収められているということです。もっと手短に言えば、信楽とは如来の至心に他ならないということです。

としますと、すでに至心は如来の心であることが確認されているのですから、その至心を体とする信楽については、はじめからこれを如来の心とすることができるわけです。このようなわけで、いきなり「信楽は如来の心である」と語られることとなったというわけです。さてしかし、信楽が如来の心であるとはどういうことか、これはすんなりとは肚に落ちてくれません。


タグ:親鸞を読む
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