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田あれば田を憂へ、宅あれば宅を憂ふ [「親鸞とともに」その101]

(4)田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ

ここで考えなければならないのは、それぞれの「欲望への意思」は互いに対立するということです。ある人の欲望は他の人の欲望とぶつかり、そのなかでしのぎを削ることになります。自他が対立することなく、共同して欲望を追求することもありますが、それはたまたま利害が一致しているからであり、一致しなくなった途端に自他の相剋がはじまります。それぞれが「わたしのいのち」を生きており、それぞれの欲望を追求するのですから、そこに対立が生まれるのは必然と言わなければなりません。としますと、「欲望への意思」にもとづいて行動することに自由があるとしても、その自由は競争の自由であり、つねに追いつ追われつの自由であるということです。これが人間にとってのほんとうの自由と言えるでしょうか。

『無量寿経』は「欲望への意思」に翻弄されて生きる人たちの姿をこんなふうに描き出します、「しかるに世の人、薄俗(浅はか)にしてともに不急の事を諍(あらそ)ふ。この劇悪極苦(ぎゃくあくごっく)のなかにして、身の営務(ようむ)を勤めてもつてみづから給済す(あくせく働いて、身をやしなっている)。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同然にして、憂思(うし)まさに等し(銭財があろうがなかろうが、同じように銭財を憂う)。屏営(びょうよう、不安でうろうろする)として愁苦し、念(おもい)を累(かさ)ね、慮りを積みて、心のために走り使はれて、安き時あることなし。田あれば田に憂へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。牛馬六畜(ごめろくちく)・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物(じゅうもつ、家財道具)、またともにこれを憂ふ。思を重ね息を累(つ)みて、憂念愁怖(うねんしゅうふ)す」と。

このなかで「欲望への意思」に追われる生活には「安き時あることなし」と言われ、そのことばは身につまされますが、自由には本来安らかさがあるのではないでしょうか。働き終わって家に帰り、大の字に寝転んで安らぐ。そのとき、もう何にも追われることのない安らぎのなかで「ああ、自由だ」という実感が得られるのではないでしょうか。自由とは「自らに由る」ということであり、それは「心が安らぐ」ということに他なりません。


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