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七仏通誡偈 [はじめての『尊号真像銘文』(その12)]

(12)七仏通誡偈

 正定聚を「切符をしっかり握りしめながら往生を待つ人」と理解しますと、目標はあくまで来生にあり、今生を生きることはそのための待機時間にすぎません。しかし正定聚とは「すでに往生の旅のなかにある人」だとしますと、今生を生きることそのものが目標を生きることであり、それとは別にどこかに生きる目標があるわけではありません。ここで思い出すのが道元です。『正法眼蔵』を読みましても何を言っているのかよく理解できませんが、ただ「修証一等(しゅしょういっとう)」だけは腹の底から頷くことができます。坐禅という修行は悟りという目的のための手段などではなく(もしそうでしたら悟りをひらいたらもう坐禅する必要はなくなります)、修行の中に悟りがあり、悟りの中に修行があるというのです。修行と悟りはひとつであるということです。
 七仏通誡偈と言われるものがあります。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(もろもろの悪をなすなかれ、もろもろの善を奉行せよ、自らそのこころを浄めよ、これが諸仏の教えなり)」。当たり前すぎて、拍子抜けしそうになります。あの白楽天が禅僧・道林に「仏教とは何か」と問うたとき、この答えが返ってきて「そんなことなら三歳の子どもでも言える」とつぶやいたそうです。道林はそれに対して、「三歳の子どもにも言えるかもしれないが、八十歳の老翁も行えない」と一喝したと言います。坐禅をする中で悟りがひらけたとしても、それで人生が終わるわけではありません。その後も坐禅をしながら「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」の修行をつづけるのです。
 正定聚も同じです。本願招喚の勅命に遇えたとき往生の旅がはじまり、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」の修行をおこなうのです。そういえば金子大栄氏がどこかで言っていました、「禅には修行があるのに、浄土には修行がないのかと言われるが、浄土の修行は山の中ではなく、日々の生活の中でおこなうのだ」と。本願招喚の勅命に遇えたからと言って、煩悩が消えてなくなるわけではありません。日々その煩悩と向き合い慙愧するなかで「自らそのこころを浄める(自浄其意)」のが正定聚です。

タグ:親鸞を読む
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