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争わず [『教行信証』「信巻」を読む(その72)]

(10)争わず


如来回向の名号という大地に立つことができましたら、人がそれについてどれほど論難しようが、もはや争う必要はありません。「あなたにとっては気に入らないかもしれませんが、わたしにはこれ以上のものはありませんのでお構いなく」と言えばいいのです。論難してくる人とあえて争おうとするのは、自分の信心が「不如実」である証拠です。相手と言い争い、勝ちを収めることで安心を得ようとしているのですから。このように、もうすでに安心があれば人と争うことはありませんが、それは自分が大事で、人のことなどどうでもいいということでは決してありません。それどころか、本願名号を賜ることのできた人は、おのずから有縁の人に本願名号を伝えようとするものです。善導の「自信教人信(みずから信じ、人を教ヘて信ぜしむ)」とはこのことで、「自信」の人はおのずから「教人信」の人になります。


これは往相はそのまま還相であるということであり、すでにさまざまな機会にふれてきましたが、あらためてどうして自信は教人信とならざるを得ないのかを考えておきたいと思います。もういちど本願の信心は本願によりおこることにもどりましょう。和讃に「信は願より生ずれば 念仏往生自然なり」(『高僧和讃』善導讃)とありますように、われらに信心がおこるのは本願のはたらきによります。もう少し丁寧に言いますと、本願(ねがい)は名号(こえ)となってわれらにはたらきかけ、それによってわれらの心に信心の火がつくのです。これは本願がわれらのもとにやってきて信心となるということに他なりませんから、信心の人は本願の人であるということです。このように信心を得た人とは本願をわが願いとして生きるようになった人のことですから、この人はもう否でも応でも「人を教へて信ぜしむ」ことにならざるをえません。


さてしかし「人を教へて信ぜしむ」ことは、論難してくる人と争うことではありませんし、また人を無理やり折伏することでもありません、みずからの信の慶びを人に伝えざるをえないだけのことです。


                                                (第7回 完)



タグ:親鸞を読む
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