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他力ということば [『ふりむけば他力』(その6)]

              第1章 自力と他力

(1)他力ということば

 これから他力思想がもっている潜在力を広い視野のもとでみていきたいと思うのですが、ただ他力ということばは一般にあまりいいイメージを持たれておらず、否定的な意味でつかわれることが多いと言えます。たとえば「他力ではダメだ、どれほど困難でも自力でやろうとしなければ」というように、他力は「他人まかせ」、「人頼み」の意味でつかわれるのが普通です。ところがこれが仏教、とりわけ浄土教のなかでつかわれるようになりますとまったく違う輝きを放ちはじめます。たとえば「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり」(『歎異抄』第3章)というように、他力は救いの原理となります。
 仏教のなかに他力ということばが登場するのはそれほど古いことではなく、6世紀の中国僧・曇鸞(どんらん)の『浄土論註』のなかです。彼は天親(インドの僧、ヴァスヴァンドゥ、唯識の大成者)の『浄土論』を注釈して『浄土論註』を著すにあたり、他力ということばをはじめてつかいました。『浄土論』の隠れたキーワードである「本願力」を他力ということばで表現したのですが、とはいうものの『浄土論註』において他力があらわれるのはたったの二か所だけです。そしてその後も他力の出番はほとんどなく、意外なことに浄土教の歴史の中でひときわ高く聳える唐代の僧・善導の諸著作には他力ということばは一度も登場しません。さらには法然の『選択本願念仏集』でもたった一度出てくるのみで、それも曇鸞からの引用文のなかです。
 他力ということばに光を当てたのがわが親鸞です。彼は『浄土論註』を読み破り、その核心が本願力すなわち他力にあるとみました。そのことを主著『教行信証』において「他力といふは、如来の本願力なり」と言い表しています。彼は他力という概念に浄土教のエッセンスがあると捉えたのです。このように、他力という日常のことばが曇鸞によって仏教のなかに採用されたものの、それが仏教語として定着するようになるのは親鸞以後であると言えます。さてもともと日常語としつかわれていた他力ということばが仏教語となりますと、そこには否応なくさまざまな不都合が生じてくることになります。

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