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本願のよびごえ [「親鸞とともに」その113]

(7)本願のよびごえ

「南無阿弥陀仏」は弥陀の呼び声であることを明らかにするために、親鸞は「南無」ということばに注目します。「南無」とはサンスクリットの“namo”の音を漢字に置きかえたものであり、「敬います」という意味で「帰命」と訳されます。ですから「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰命します」ということで、これはわれらが発信することばとしか受け取ることができません。ところが親鸞は「帰命」の「帰」に注目し、そこから思いもかけない結論を導きだすのです。

『詩経』という古典に「帰」の熟字として「帰説」ということばがあり、それは「きえつ」と読み、その「説(えつ)」は「悦」で、「心のわだかまりが取れて悦ぶ」ことだと言います(説を悦ぶと読む例として、『論語』に「学びて時に之を習う、亦た(よろこ)ばしからずや」とあります)。ここから「帰」には「悦ぶ」という意味があるとするのです。さらに同じ『詩経』に「帰説」を「きさい」と読む場合があり、その「説(さい)」は「税」で、それは「舎息」すなわち「家のなかでゆっくり寛(くつろ)ぐ」ということだと言います。つまり「帰」には「寛ぐ」という意味もあるというのです。

「帰」ということばには、帰るべきところに帰って「悦び」、「寛ぐ」という意味があることで、ここまでは素直に頷けます。ところが親鸞流はこのあとで、「帰説」の「説」は元来「告げる、述べる」の意味であることから、「帰」には、帰ってくるように告げ、述べるという意味があるとします。つまり「帰」とは、われらが帰るべきところに帰って悦び、寛ぐことであるとともに、向こうから帰ってくるよう呼びかけられていることだというのです。むこうから「帰っておいで」と呼びかけられているから、帰るべきところに帰ることができるのだということです。

かくして「南無阿弥陀仏」の「南無」すなわち「帰命」とは、如来がわれらに「帰っておいで」と呼びかけているのであり(これを本願招喚の勅命と言います)、だからこそわれらが「帰命します(帰らせていただきます)」と応答できるのだということになります。「おかえり」が先で、「ただいま」が後ということです。


タグ:親鸞を読む
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