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不思議な「ひかり」 [「『正信偈』ふたたび」その17]

(8)不可思議な「ひかり」

「ひかり」は智慧をあらわすと言われます。ですから「ひかり」に照らされるということは智慧の「ひかり」を浴びるということです。しかしこのことから「ひかり」がやってくることで何か不思議な智慧を賜るというようにイメージするべきではないでしょう。智慧はどこかからわれらのもとに飛んでくるとは思えません。そうではなく、「ひかり」に照らされるとは、ある「気づき」が生まれるということです。「気づき」というのは、すでにあるものなのに、それをすっかり忘れてしまい、忘れていること自体を忘れているときに、あるきっかけでそれをふと思い出すということです。

あることをすっかり忘れこけているというのは、われらの心がまったき暗がりのなかにあることを意味すると言えるでしょう。そこに突然「ひかり」が差し込み、忘れこけていたことが明るみのなかに浮き上がる、これが「気づき」です。あるとき突然「ひかり」が差し込むときのことを曇鸞はすばらしい譬えで次のように表現します、「たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至らば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや」と。千年の間ずっと闇のなかにあった室(われらの心です)に、あるとき「ひかり」が差し込むとき、その室が明るくなるのにまた千年かかるだろうか、たちまちに明るくなるではないか、と言うのです。

われらの心はこれまでずっと闇のなかにあり、その奥底に「ほとけの願い」という宝ものが眠っているのもかかわらず、それにまったく気づくことがなかった。ところがあるときそこに「ひかり」が差し込み、たちまちに明るくなることで、そこにはもうとうの昔から「ほとけの願い」があったことに気づくのです。そしてこの「ひかり」は、当の「ほとけの願い」そのものからやってくるとしか考えられません。「ほとけの願い」は「南無阿弥陀仏」の「こえ」となるとともに、不可思議な「ひかり」となって、自身の存在を知らしめているのです。「ほとけの願い」(本願)は、それ自身が「南無阿弥陀仏」の「こえ」(名号)と不可思議な「ひかり」(光明)となって、われらのもとにやってくるということです。


タグ:親鸞を読む
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