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仏の本願によるがゆゑなり [「『正信偈』ふたたび」その111]

(4)仏の本願によるがゆゑなり

三選の文の最後に「名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」とありますが、この「仏の本願によるがゆゑなり」という結句の元となっているのが先にあげました善導『観経疏』の「かの仏の願に順ずるがゆえなり」です。すなわち「二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」と言えるのは、それがわれらの選択ではなく仏の願い(選択)であるからだということです。

さてしかし、「われらの選択か、あるいは仏の願い(選択)であるか」とはどういうことでしょう。その問いには、「自力で選びとったか、他力に選びとられたか」の違いであると答えることができますが、これにはさらに「他力に選びとられたとはどういうことか」という問いが立ち上がってきます。名号を自力で選びとるということには何の説明も不要ですが、名号は他力に選びとられたという言い回しはストンと肚に落ちてくれません。そこで繰り返しを厭わず、名号すなわち南無阿弥陀仏とは何かという原点にいま一度たちかえりましょう。

本願と訳されたもとのサンスクリットは「プールヴァ・プラニダーナ」で、「前の(本の)願い」という意味です。これは直接的には「阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩であったときに立てられた願い」ということですが、そこから意味を飛躍させて「この世界に本からある願い」、「どんな過去よりもっと過去からある願い」と考えてみたい。その願いといいますのが「いのち、みな生きらるべし」です。「あらゆるいのちが分け隔てなく幸せに生きてあれかし」という願いです。この世界には無始よりこのかたこの願いがかけられているということです。そしてこの願いがあらゆる衆生に届けられるために名号すなわち南無阿弥陀仏があるのです。名号はわれらが選びとって称えるものではありません、仏の願いが名号を選びとり、それがわれらに送られてくるのです。名号はわれらが選びとるのではなく、仏によって選びとられたというのは、このことです。


タグ:親鸞を読む
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