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よきひと [「信巻を読む(2)」その107]

(10)よきひと

それを思うとき頭に浮びますのは『歎異抄』第2章です。関東からやってきた弟子たちの訝しげな顔に対して親鸞はこう言います、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。親鸞が如来の大悲に遇うことができたのは、ひとえに法然という「よきひと」の仰せを聞くことができたからであり、それ以外に何もないということです。このことは何度でも繰り返し確認しておかなければなりません。如来の「こえ」はそれを直接聞くことはできず、「よきひと」の「こえ」を通して、その中から聞くしかないということです。われらが聞くことのできる「こえ」は「よきひと」の「こえ」でしかないということで、この場面で親鸞が弟子たちに言っているのは、「あなたがたもどうぞわたしの『こえ』を通して、その中から如来の『こえ』を聞いてほしい」ということです。

さてしかし「よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とは言うものの、その道程は単純なものではないでしょう。親鸞の場合は、妻の恵信尼の証言によりますと、「たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大風)にも、まゐりてありしに」とありますように、「よきひとの仰せをかぶりて」ただちにそれを信じることができたわけではないことが分かります。聞かせてもらっては、疑問をただし、また聞かせてもらうという過程をくり返したに違いありません。そもそも「よきひと」の仰せは、これまでの自分の世界を大きくはみ出すものであり、それをそのまますんなり呑みこめるはずがありません。ですから何度も問答をくり返すなかで、あるときそこから如来の「こえ」が聞こえてくるという経験をするわけです。

阿闍世も「よきひと」耆婆のことばに随ったとはいえ、自分のようなものがどのようにして救われるのか「なをいまだあきらかならず」という状態にあったのでしょう。だからこそ耆婆に「たとひわれまさに阿鼻地獄に入るべくとも、ねがはくは、なんぢ捉持してわれをして堕さしめざれ」と言わざるを得なかったのだと思われます。


タグ:親鸞を読む
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