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至誠心 [『教行信証』「信巻」を読む(その46)]

(5)至誠心


 三心の一つ目、至誠心についてです。その前半。


 『経』にのたまはく、〈一者至誠心(一つには至誠心)〉。〈至〉とは真なり、〈誠〉とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行(げぎょう、教えの理解とその実践)、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲ふ。外(ほか)に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて貪瞋・邪偽・奸詐百端(かんさひゃくたん、悪賢くあざむく心が数限りない)にして悪性やめがたし、事、蛇蝎(じゃかつ、蛇やさそり)に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励(くれい)して日夜十二時に急にもとめ急になして頭燃(ずねん)をはらふ(頭の上についた火を払い消す)がごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。


 この至誠心についての箇所は、親鸞独自の読みが続出するところで、親鸞らしさがあふれています。


まず善導は至誠心とは真実の心であると言い、そしてわれらの身口意三業について「必須真実心中作」と述べます。これは普通に読み下しますと「かならずすべからく真実心のうちになすべし」となります。仏道修行はすべからく真実の心でしなければならないということで、きわめて常識的です。ところが親鸞はこれを上のように、「かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐん」と読むのです。これは「須」を「もちゐる」と読み、まったく人の意表を突くものと言わなければなりません。「真実心のうちになす」のは「われら」ではなく「如来」であり、われらはそれをいただいて須いさせていただくのであるということです。


われらにはもとから真実の心などあるはずがなく、あるように見えるものはみな如来からいただいたものであるということ、これが親鸞の読みです。



タグ:親鸞を読む
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