SSブログ
「信巻を読む(2)」その70 ブログトップ

救いは「いま」しかない [「信巻を読む(2)」その70]

(12)救いは「いま」しかない

釈迦はマールンクヤにこう言うのです、「そのものが周囲の人たちにこう命じたとしよう、この矢を射たものの氏素性が分かるまでは矢を抜くではないと。汝はそれをどう思うか。汝のしていることもそれと同じではないか。汝がいますぐしなければならないのは、生きる苦しみを抜くことであるのに、汝は死んでからどうなるかということばかり知ろうとしている」と。釈迦がこの譬えで言わんとしていることは、救いは「いま」しかないということです。試しに「あす」の救いということを考えてみたいと思います。「あす」救われるということですが、それは「いま」は救われていないということでしょうか。

確認しておきたいと思いますが、救われるとは、どんな状況にあっても「安心(あんじん)」があるということです。状況によって左右されるのが「安心(あんしん)」ですが、どんな逆境におかれても生きていくことができ、また死ぬことができるというのが「あんじん」です。さていま考えているのは「あす」救われるということですが、これは「あす」になってはじめて「あんじん」が得られるということで、「いま」はまだないということでしょうか。もしそうでしたらそれを「あんじん」と呼ぶことはできません、せいぜい「あんしん」でしょう。ほんとうに「あす」救われるのでしたら、もうすでに「いま」救われているはずです。やはり救いは「いま」しかないと言わなければなりません。

話をもとに戻しまして、現当二益です。今生の利益と来生の利益ということですが、さて来生の利益とは何かという問題です。親鸞は真実の信心があれば「かならず現生に十種の益を獲」と述べていますが、しかしどこにも来生の利益について言及することはありません。現生十益の最後が「正定聚に入る益」で、正定聚に入るとは「かならず仏となるべき身となる」(親鸞の注)ことですから、今生で正定聚となり、来生に仏となると言えるでしょう。としますと現益が正定聚に入る益で、当益が仏となる益ということでいいではないかと言われるかも知れませんが、さてしかし「仏となる」とはどういうことか。それは「わたし」が仏となることではありません。いのちが終わるということは「わたしのいのち」が終わるということですから、「わたし」が仏となることはありません。

今生で正定聚となり、「わたしのいのち」が終わると「ほとけのいのち」に帰っていくのです。

(第6回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その70 ブログトップ