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宿業にはからわれて [『ふりむけば他力』(その55)]

(6)宿業にはからわれて

 もう一度、宿命論にもどりますと、「ああ、これは宿命だ」と思う人にとって自分と宿命は別々に切り離されています。こちらに自分の思惑があり、あちらに宿命があります。そして宿命の力は自分の力を圧倒していて、わがちっぽけな思惑など呆気なく流し去ってしまいます。ここから了解できますように、宿命の力は自然の力に似ています。津波の力がわが家をあっという間に持ち去ってしまうように、宿命の力もわが思いをこともなげに吹き飛ばしてしまうのです。自然と自分との間に内的なつながりがないように、宿命と自分との間にも内面的なつながりはありません。突然、外からやってきてもみくちゃに翻弄してはまた去って行きます。ですから自分に責任はありません、みな宿命の所為です。
 しかし宿業は違います。何か圧倒的な力に支配されているのは宿命と同じですが、その力は自分と内面的につながっていて、その力のなかに包みこまれていると感じます。宿命の力が自然の力に似ているのに対して、宿業の力は歴史の力に似ています。われらは否応なく歴史の圧倒的な力の支配を受け、歴史につくられています。われらひとり一人が歴史をつくっているのは間違いありませんが、同時に、その歴史につくられているのです。そのように生きとし生けるものたちはひとつにつながりあいながら宿業をつくり、そしてその宿業につくられています。宿業につくられているという点では、責任は宿業にあると言えますが、ひとり一人が宿業をつくっているという点では、責任はひとり一人にあると言わなければなりません。
 「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」という宿業の思想を宿命論との対比において考えてきました。あらためて整理しておきますと、宿命論は「どうして自分がこんな苦境に立たされなければならないのか」という止みがたい問いを前にして、宿命を持ち出すことによって何とかしてこころを納得させるとともに、自分の責任を解除しようとするものです。それに対して宿業の思想は、自分がどのような思いをもち、どのように行動するにせよ、それらはすべて宿業の大いなる力にはからわれていることを自覚しているのであって、決して己の責任から逃げ出すものではありません。宿命と宿業、一見よく似ていますが、どちらが人をうなずかせる力があるかは明らかでしょう。

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