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仏恩報謝のため(つづき) [「『おふみ』を読む」その33]

(8)仏恩報謝のため(つづき)

「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」とあるのは有名ですが(『歎異抄』第5章)、これは父母孝養〈のため〉の念仏だけを言っているのではなく、「わがちからにてはげむ善」としての念仏一般について言っていると受け取ることができます。何か〈のため〉の念仏は「わがちからにてはげむ善」、すなわち自力の念仏になってしまうということです。たとえ目的が仏恩報謝であっても、そのために念仏しなければならないとなりますと、これも所詮、自力の念仏ではないでしょうか。

さてでは先の和讃「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」はどうなるでしょう。この「仏恩報ずるおもひあり」と「おふみ」の「報謝のためとおもいて、念仏もうすべき」とはどこが違うのか。すぐ気がつきますのは、「報謝のためとおもいて、念仏もうすべき」という場合、念仏するに先立って仏恩報謝の思いがあるということです。まずもって仏恩に報謝しなければならないという思いがあり、そのために念仏しようとしています。ところが「弥陀の名号となへつつ…仏恩報ずるおもひあり」では、すでに念仏しながら、そこに仏恩報謝の思いが含まれていることを感じているのです。

まず報謝の思いがあって念仏するのと、念仏しながらこれは報謝の思いだと気づくのとの違いです。

結局、称名念仏とは何か、というところに戻ってきます。因幡の源左が「源左たすくる(源左よ、たすけるぞ)」という不思議な声に「ようこそ、ようこそ」と答えたように、弥陀の招喚の勅命に応答するのがわれらの称名念仏だとしますと、勅命と応答との間に隙間はありません。もし「帰っておいで」と「ただいま」の間に隙間があるとしますと、その間に「わたし」が入り込んで、この声を信用していいのかどうか疑っているということに他なりません。一方、「帰っておいで」と「ただいま」の間に隙間がないとき、「ただいま」と応答しながら、そこに「あゝ、ありがたい」という思いがあることに気づいていることでしょう。これが「仏恩報ずるおもひあり」ということです。


タグ:親鸞を読む
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