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わがもの [『ふりむけば他力』(その32)]

(5)わがもの

 しかしわれらは実体としての「われ」に深く囚われています。それを何より分かりやすく示すのが「わがもの」への囚われです。釈迦のことばとして伝えられるものでもっとも印象に残るのが「わがもの」に囚われて苦しむわれらの姿をとらえたものです。「(何ものかを)わがものであるとして執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、『わがもの』という思いを離れて行うべきである」(『スッタニパータ』)。あるいは「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』)。
 ついこの間のことですが、ある方から「妻からやにわに“あなたは何のために生きているの”と尋ねられて困ったのですが、どう思われますか」と問われ、ぼくの口をついて出た答えは次のようなものでした。「何のために生きるか?」という問いは、「わがいのち」を「わたし」が主宰しているという前提に立っています。「わがいのち」を何のために使うかを決めるのは「われ」であるというように。しかしそれは「わがいのち」をひたすら「わがもの」として私有化しているのではないでしょうか。たとえば革命家が「わたしは革命のためにわがいのちを犠牲にして生きる」と言うようなとき、そこに何か欺瞞が隠れているように感じられるのですが、それは「わがいのち」が私有化されているからだと思います、と。
 実体としての「われ」はなく(無我)、したがって「わがもの」もない(無我所)という釈迦の教説を見てきましたが、ここで是非とも確認しておかなければならないのは、釈迦はこの教説で、「われ」という思い、「わがもの」という思いを捨てて生きよと説いているのではないということです。むしろ逆で、われらはもう捨てようもなくこのような思いに囚われていると言っているのです。われらが生きるということは、このような思いとともにあるということだと。釈迦が言うのは、それに囚われて生きているという事実に気づけということです。
 それを明らかにするために四諦説を考えておきましょう。

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