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その宗あさしいやしといふとも [はじめての『尊号真像銘文』(その136)]

(13)その宗あさしいやしといふとも

 「こちらからの真理」をめぐる争いというのは、ある人がゲットしたという真理が実際にあるかどうかということです。Aさんはあると言うのに、Bさんはないと言うとしますと、喧々諤々の論争が起こるわけです。ところが「むこうからの真理」はといいますと、真理にゲットされたか、さもなければゲットされていないかのどちらかです。ゲットされた人はそれで救われ、ゲットされていない人は、ただ何ごともおこっていないだけのことで、それまでです。ただゲットされていない人が、ゲットされた人にイチャモンをつけてくる可能性はあります。お前さんは何かわけの分からないことを言っているが、そんなことがどうして言えるのか、と。
 釈迦が「争わない」というのは、そういうときのことでしょう。
 「こちらからの真理」の場合には、自説に異を唱える人に誠実に応答することが求められます。その異説がきちんとした根拠にもとづいているときには、それが義務といってもいいでしょう。そうした批判の相互応酬によってより真理に近づくことができるからです。しかし「むこうからの真理」の場合は、他からどれほど批判・非難されようと、それに立ち向かっていく必要はありません。「むこうからの真理」にゲットされた人は、それですでに救われているのですから、傍からそのことをどう言われようと、むきになって争いあうことはありません。
 そのあたりのことを『歎異抄』第12章が分かりやすく説いています。「たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひと(甲斐性のない人)のためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。…われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや」と。見事な答え方だと思います。
 「仏教は念仏の教えひとつ」に戻りますと、これは決して念仏以外は仏教ではないということではありません。逆です、みんな仏教だと言っているのです。よく仏教には八万四千の法門があると言われますが、小乗も大乗も、聖道も浄土もみな仏法であることに変わりありません。対機説法と言われますように、相手によって聖道の語り方がされることもあり、浄土の語り方がされることもあるのであって、説かれているのはひとつの仏法です。真理はひとつ、ただそれをどう語るかが違うだけです(7参照)。

タグ:親鸞を読む
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