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ポジとネガ [はじめての『尊号真像銘文』(その123)]

(13)ポジとネガ

 「気づきにおいて」というのは、要するに「こころの中」にあることではないのか、という疑問が出るかもしれません。
 たしかによく似ていますが、でも両者が異なることは生死の家もまた「気づきにおいて」しか存在しないということから明らかです。生死の家はただ「こころの中」にしかないなどということはありません。ぼくらが生死の家を生きているのは現実であり、ただ「こころの中」でそう思っているのではありません。でも、ここが生死の家であって苦しみの世界であるというのはひとつの気づきであり、その気づきのない人にとっては生死の家などどこにもありません。涅槃の城もまた、ただ「こころの中」にしかないのではなく、本願に遇うことで現に涅槃の城を生きることができるのですが、だからといって「こころの外」のどこかにあるのでもなく、あくまで「気づきにおいて」存在するのです。その気づきのない人にはどこにもありません。
 生死の家も涅槃の城も「気づきにおいて」存在するとしても、それらの気づきがふたつでひとつであるというのはどういうことでしょう。
 あるときは生死の家に気づき、また別のあるときに涅槃の城に気づくのではないということです。生死の家に気づいたときには、同時に涅槃の城に気づいているのであり、涅槃の城に気づいたときには、同時に生死の家に気づいているということです。それをすぐ前のところで「コインの表と裏」の関係と言いましたが、「写真のポジとネガ」の関係に譬えることもできます。ぼくらが見る写真はポジの画像ですが、それがあるとき突然ネガの画像に反転するという場面をイメージしていただきたい。それは一瞬のことで、またすぐポジに戻るのですが、一瞬でもネガに反転することで、はじめていま見ているのがポジであることが分かります。
 ぼくらは生死の家を生きているのですが、それがあるとき涅槃の城に反転します。それは一瞬のことで、すぐまた生死の家が戻るのですが、この一瞬のことで、涅槃の城に気づくと同時に生死の家を生きていることにも気づくのです。ここは生死の家であるがままで涅槃の城であることに気づくのです。
                
                (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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