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はじめての『教行信証』(その73) ブログトップ

2013年10月9日(水) [はじめての『教行信証』(その73)]

 この文章には激しい批判精神があらわれています。
 『教行信証』の中では、その末尾(後序)で怒りが露となった文章が綴られますが、それ以外ではここだけでしょう。「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心にしづんで、浄土の真証を貶す。定散の自心にまどふて、金剛の真心にくらし」と他を厳しく弾劾しているのです。あるいは「人倫の哢言をはじず」とか「毀謗を生ずることなかれ」と闘争精神がむき出しです。
 親鸞は一体何に対して立ち向かっていこうとしているのでしょう。言うまでもありません、他力の信心を貶めようとするやからに対してです。
 文の冒頭で「信心は弥陀の本願により賜ったものである」と信巻全体の結論を述べます。われらにもともと真実の信心などあるはずはなく、それは弥陀の廻向によるしかないということです。ところが周りを見渡してみると、「自性唯心」に沈んだり、「定散の自心」に惑ったりして、この「如来廻向の信心」を貶めている。
 そこで不肖わたくし親鸞が「如来廻向の信心」というものを経・論・釈からはっきりさせたいと思う。とりわけ「三心一心問答(天親の一心と第十八願の三心-至心・信楽・欲生-の関係についての問答)」を展開することで、真実の信心のありようを明らかにしようというのです。
 これが『教行証文類』の中にあえて信巻を設ける理由です。

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