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一紙・半銭も(第18章) [『歎異抄』ふたたび(その99)]

(10)一紙・半銭も(第18章)


さて最後の第18章、「仏法の方(寺や道場)に、施入物(布施)の多少にしたがつて、大小仏になるべし」という異義です。これに対して唯円は、当然のこととして「一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ」と答えます。布施の問題など些細なことと見えるかもしれませんが、このような細部にこそことの本質が潜んでいるものです(「神は細部に宿りたまう」といいます)。親鸞は「非僧非俗」を旗じるしとして掲げましたが、これを手がかりに考えてみましょう。


言うまでもないことですが、仏教では僧(仏道修行者)と俗(在俗信者)とははっきり分かれ、僧は俗の布施にたよって修行に専念してきました。ところが親鸞は承元の法難で流罪となったことを機に「しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず」と宣言し、それを己の生き方として選択しました。彼は流罪が解かれてからも京に戻ることなく(僧に戻ることなく)、関東の地で「非僧非俗」の生活をつづけたのです。ここで留意しなければならないのは、単に「非僧」ではなく「非俗」でもあるということです。ただ僧の地位を捨てるだけでなく、まったき俗人として生活するのでもないということ、僧と俗のあわいに生きようとしたのです。


在俗信者と交わりつつ、浄土の真宗を伝える活動をしていこうとするところ、おのずから布施の問題が生じてきます。「すでに僧にあらず」と言っても、生産活動に従事するわけではありませんから、生活の資を在俗信者からの布施に頼らざるをえません。そのとき唯円の「一紙・半銭も仏法の方に入れずとも云々」ということばは、おのずからある種の緊張を伴うこととなります。布施はそれをするによって往生をえられるわけではなく、あくまで「よきひと」への報恩のしるしにすぎませんから、「一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意」であるのは言うまでもありませんが、さてしかしほんとうに在俗信者が「一紙・半銭も仏法の方に入れ」なくなりますと、「仏法の方」としては生活の資が断たれることになります。


「非僧非俗」という生き方はそのような緊張をはらんでいることを忘れるわけにはいきません。


(第10回 完)



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