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穢国にかならず化するなれ [『浄土和讃』を読む(その40)]

(4)穢国にかならず化するなれ

 菩薩和讃の2番目です。

 「安楽無量の大菩薩 一生補処(いっしょうふしょ)にいたるなり 普賢(ふげん)の徳に帰してこそ 穢国(えこく)にかならず化するなれ」(第17首)。
 「浄土につどう菩薩衆、仏となる身にさだまれど、慈悲のこころのなすところ、娑婆にかならず戻りくる」。

 曇鸞の偈は「安楽の無量の摩訶薩(まかさつ)は みなまさに一生にして仏処を補ふべし その本願の大弘誓をもって あまねくもろもろの衆生を度脱せんと欲するを除く これらの宝林功徳衆を 一心に合掌し頭面(ずめん)をもって礼したてまつる」と少々長い。これは第二十二願の成就文「かの国の菩薩、みな、一生補処を究竟(くきょう)すべし。その本願の、衆生ためのゆえに、弘誓の功徳をもって、みずから荘厳し、あまねく一切の衆生を度脱せんと欲わんをば除く」をうたっています。
 一生補処とは、曇鸞の偈にありますように、この一生を終えれば仏処を補うことになっているということで、次の世に必ず仏となることが約束されている地位です。しかし一切衆生を救わずにはおれないという普賢の徳を行う菩薩は、娑婆世界に戻ってきて利他大悲の行を修めるというのです。「穢国にかならず化するなれ」とはそういうことです。さて、この和讃もまた「安楽無量の大菩薩」ということばの印象から、われらとは縁のない遠い世界の話と受けとりますと台無しになってしまいます。
 大菩薩と聞けば、観音菩薩や勢至菩薩あるいは弥勒菩薩が頭に浮かび、いずれもお寺に安置してある像をイメージします。しかし菩薩衆は、この和讃にありますように「普賢の徳に帰してこそ、穢国にかならず化するなれ」ですから、娑婆世界にその姿を現わしているに違いありません。親鸞が六角堂で見た夢に聖徳太子が観音菩薩の化身としてあらわれたと言いますし、恵信尼の夢の中には法然が勢至菩薩として、親鸞が観音菩薩としてあらわれたと言います(いずれも恵信尼が末娘・覚信尼に宛てた手紙に出てきます)。こうした話はまったく違和感なく自然に受け止めることができます。
 そういうことからしますと、ぼくらのすぐ隣にいるどなたかが観音菩薩や勢至菩薩の化身かもしれず、縁がないどころではありません。

タグ:親鸞を読む
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