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3月4日(月) [はじめての親鸞(その67)]

 救いは自分で手に入れることはできず「あなた」から思いがけず与えられるということ、これが他力だということをいろんな角度から述べてきました。「あなた」に求めて与えられるのが他力ではありません。「あなた」からすでに与えられていることにふと気づく、これが他力だと。しかしその一方で、ぼくらが生きようとすることは何から何まで自力です。としますと、自力と他力はどのような関係にあるのでしょう。こちらに自力の世界が、あちらに他力の世界が、というように分かれているのでしょうか。
 「俗と聖」という区別があります。俗の領域ではみんな自力を頼んで生きています。そうしなければ生きていけません。でも、聖の領域では他力。と、こんなふうにようになっているのでしょうか。しかし俗の領域と聖の領域をすっきり分けることなどできるものではありません。例えばお寺の中はさしずめ聖の領域でしょうが、そこでも生きるためには衣食住を得なければなりません。そしてそれはすべて自力を頼むことです。いや、お寺は自力を頼まなくてもいいように、お布施というものがあるのだと言われるかもしれませんが、でも、お布施を求めるのも自力です。
 『歎異抄』にお布施の話がでてきます。「お布施なんか一銭も出さなくても、他力のこころで信心をしっかり持っていれば、それこそ本願にかなうというものです」と唯円が言っているのです。これは文句なく正しいと思いますが、その一方で、唯円さん、そんなことを言って大丈夫ですか、と心配になります。多くの人が「そうか、信心が問題であってお布施なんてどうでもいいんだ」と考えて、お布施を出さなくなったらどうするのだろう、生活できなくなってしまうじゃないかと気を揉んでしまうのです。

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