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ほとけとなる [「親鸞とともに」その114]

(8)ほとけとなる

「帰る」ということについて考えてきました。このことばには、帰るべきところに帰って悦び、寛ぐという意味があるということ、そして人が帰るべきところに帰ろうと思うのは、むこうから「帰っておいで(おかえり)」というよび声が聞こえているからだということでした。だからこそ、「帰る」ということばは、そのことば自身に不思議な安らぎを与える力があるのです。さて死ぬとは「ほとけのいのち」という「いのちの故郷」に「帰る」ことに他なりません。そして「ほとけのいのち」からは「いつでも帰っておいで」というよび声が聞こえているのですから、「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり」と安らかに帰っていけるのではないでしょうか。

ところで「ほとけのいのち」に帰るとは、要するに、「ほとけとなる」ことに他なりません。「あの人も、とうとうほとけになってしまった」と言うのは「死んだ」ということです。これはしかし仏教で「ほとけとなる」と言うときのもともとの意味からはかなりズレています。仏とは“Buddha”すなわち「目覚めた人」のことで、それが「仏陀」と音訳され、「仏」と略されているのです(それが「ほとけ」という訓でよまれました)。このように、もともと「目覚めた人」を指すことばが、いつの間にか「死んだ人」を意味するようになったのですが、ここにはどんな事情があるのでしょう。

もともと「ほとけ」とは「目覚めた人」である釈迦を指していましたが、釈迦亡きあと時間が経つにつれて、「ほとけ」は釈迦その人を指すと同時に釈迦が目覚めた法(縁起や無我)を意味するようになっていきます。釈迦その人の影は次第に薄くなりますが、釈迦が目覚めた法そのものは永遠なるものとして輝いていますから、おのずからそちらに重心が移っていくことになります。形ある「ほとけ」としての色身と、形なき真如そのものとしての「ほとけ」である法身とに分かれ、法身に重きがおかれるようになるのです。そして大乗仏教が展開するなかで、それがさらに法身・報身・応身の三身(さらに化身を加えて四身)へと分化していきます。


タグ:親鸞を読む
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