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念仏か信心か [『末燈鈔』を読む(その97)]

(2)念仏か信心か

 有阿弥陀仏という人については『門侶交名牒』にもその名がなく、どんな人かよく分かりませんが、ただ追伸からしますと、かなり高齢の人であろうと思われます。
 さてこの有阿弥陀仏という人、どんな不審をぶつけてきたのでしょう。「念仏往生と信ずるひとは辺地の往生とてきらはれ候らん」というのですが、これは「念仏により往生できる」として「一向に名号をとなふ」人は、真実の浄土へ往生することはできないということでしょうか。信心によってこそ往生できるのだから、「念仏往生」ではなく「信心往生」でなければならない、と。これは有阿弥陀仏自身の考えなのか、それとも誰かがそう言っていて有阿弥陀仏はそれに不審をもっているのか、そのあたりがよく分かりませんが、親鸞はこれを「おほかた(まったく)こゝろえがたく候」と切って捨てます。
 この問題は「信か行か」あるいは「一念か多念か」と同じです。これまでも第9通で「誓願か名号か」、第11通で「信の一念か、行の一念か」という形で論じられてきました。ですからここに新しい論点はなく、親鸞の答えは「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候」ということに尽きます。第11通にありましたように、「信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」で、「行と信とは御ちかひを申なり」というところに収斂するのです。
 それにしても、どうしてこうも同じ不審が繰り返し寄せられるのでしょう。親鸞としましても、相手こそ違うものの、どうしてこうも何度も同じ類の疑問に答えなければならないのでしょう。ここで考えなければならないのは、「他力ということ」の難しさです。一旦は分かったつもりになっても、すぐまた分からなくなり、さまざまな「はからひ」の森に迷い込んでしまうのです。


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