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報土と化土 [『正信偈』を読む(その146)]

(7)報土と化土

 浄土が彼方にあるか、ここにあるかが問題ではなく、浄土があることに疑いがあるかどうか、これがほんとうの問題なのです。
 ここから報土と化土の区別が出てきます。
 親鸞はこう言っています、「専雑の執心、浅深を判じて、報化二土、正しく弁立せり」と。専修によりはじめて真の浄土である報土へ往生でき、雑修では仮の浄土である化土にとどまるというのです。専修とは「念仏のみ」ということで、雑修とは「念仏も」ということですが、どうして「念仏のみ」により報土で、「念仏も」によると化土なのでしょう。
 ことはこころの底から浄土はあると思っているか、それともあるかもしれないがないかもしれないと思っているかに関わります。
 専修の人とは、こころの底から浄土はあると思っている人のことです。専修の人は、「なむあみだぶつ」の声が聞こえてきて、喜びに溢れ「なむあみだぶつ」と称えるだけ、他に何も要らない人です。その人にとって浄土は前方にありますが、実は、もうすでに浄土にいるのです。これが報土です。
 しかし雑修の人は、ほんとうに浄土があるのかを疑っている人です。その人にとって浄土はあるかもしれないが、ないのかもしれませんから、「念仏も」しているのです。その人はいまだ浄土にいませんが、その疑いが解けさえすれば、ただちに浄土に入ることができるのですから、その境地を化土と言うのです。
 報土・化土とは、あたかもあの世のことのようですが、報土が「いま、ここ」にある以上、化土も「いま、ここ」の話です。「なむあみだぶつ」の声が聞こえた人は、すでに報土にいますし、いまだその声が聞こえない人は、報土に入ることはできず、化土にとどまっているのです。

           (第20章 完)

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