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無量寿仏の名 [『観無量寿経』精読(その95)]

(5)無量寿仏の名

 そのことについてはこれまで何度も述べてきましたので、ここでは「無量寿仏の名」について考えておきたいと思います。浄土教において「無量寿仏の名」とは「南無阿弥陀仏」と相場が決まっています。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」(六字名号)以外に「南無不可思議光仏」(八字名号)、「南無不可思議光如来」(九字名号)、「帰命尽十方無礙光如来」(十字名号)もつかわれますが、いずれも「阿弥陀仏」や「無量寿仏」だけでなく、その前に「南無」もしくはその漢訳である「帰命」をつけます。これはもうずっとそういうものとして通ってきているのですが、不思議なことに、浄土三部経のなかで「南無阿弥陀仏」が出てくるのはこの『観経』だけなのです。
 『大経』には枚挙にいとまがないほど「名」「名字」「名号」が出てきます。初出は第十七願で「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが〈名〉を称せずは、正覚を取らじ」。次いで第二十願に「十方の衆生、わが〈名号〉を聞きて、念をわが国に係け云々」とあり、そして第三十四願の「十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが〈名字〉を聞きて」のあと、三十五、三十六、三十七願でも「わが〈名字〉を聞きて」とつづきます。さらに四十一から最後の四十八願まで(四十六願を除き)、みな「わが〈名字〉を聞きて」が入っています。本願の中だけでなく、有名なところでは第十八願成就文に「あらゆる衆生、その〈名号〉を聞きて信心歓喜せん」とあるといった具合で、『大経』にとって「名号」はキーワード中のキーワードと言わなければなりません。ところが「南無阿弥陀仏」は一度たりとも出てきません。
 それは『小経』でも同じで、その核心部分に「もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、〈名号〉を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん」とありますが、「南無阿弥陀仏」はどこにも出てきません。

タグ:親鸞を読む
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