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第8回、本文1 [「『証巻』を読む」その74]

第8回 畢竟じてまさに清浄法身を得べし

(1)  第8回、本文1

浄入願心の章のつづきです。

〈この清浄に二種あり、知るべし〉(浄土論)といへり。上の転入句のなかに、一法(一法句)に通じて清浄(清浄句)に入る、清浄を通じて法身(無為法身)に入る。いままさに清浄を(わか)ちて二種を出すがゆゑなり。ゆゑに知るべしといへり。

〈なんらか二種。一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、(さき)に説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。それ衆生は別報(仏・菩薩の各別の業による各別の果報)の体とす、国土は共報(ぐうほう)仏・菩薩の共通の業による共通の果報)(ゆう)はたらきとす。体用一ならず。このゆゑに〈知るべし〉。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず(通常は「諸法は心をもつて成ず。余の境界なし」と読む。器も衆生も法蔵菩薩の願心から生まれたもの)。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず(異なるものではない)。すなはち義をして分つに異ならず(意味の上から分けるが、実際に異なるわけではない)、同じく清浄なり。器は用なり。いはくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに、名づけて器とす。浄食(じょうじき)に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに、器また不浄なるがごとし。かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもつて一つの清浄の名、かならず二種を(せっ)す。

因である法蔵の願心が清浄であるがゆえに果である浄土も清浄ですが、その清浄に器世間清浄と衆生世間清浄の二つがあることが説かれます。器世間とは仏国土のことで、衆生世間とは仏・菩薩をさします。そして仏・菩薩はそれぞれ別体(別報の体)ですが、仏国土は仏・菩薩が共通して受用するもの(共報の用)という点で両者は異なります。しかし、どちらも法蔵菩薩の清浄な願心を因として生まれたものですから、その意味では異なるものではないと言っているのです。


タグ:親鸞を読む
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