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知の領域と信の領域 [親鸞最晩年の和讃を読む(その83)]

(10)知の領域と信の領域

 知(人知)の領域の外には信(仏智)の領域が広がっていますが、そのように信の領域があることに気づいている人は、知の領域にはおのずから限界があることを了解しています。しかし信の領域に気づいていない人にとっては、すべては知の領域であり、そこに限界があるとすれば、今のところ力不足でまだ到達できていないところがあるだけのことで、いずれ踏破できると楽観しています。このところAI(人工知能)を廻る議論がさかんになり、AIはそのうち間違いなく人知を超えるだろうという人が多くなってきましたが、そのように考える人は、人間が到達できない知の領域にAIが踏み込んでいくだろうと推測しているのでしょう。
 しかし、繰り返しますが、知の領域の外には広大な信の領域があります。そして信の領域には、いかなる知の技法も(したがっていかに精妙なAIの能力も)及ぶことができません。知る(ドイツ語でBegreifen)とは、われらが特殊な技法を使って世界のありようを「つかみ取る(把握する)」ことですが、信じるとは気づくことで(英語でawake)、これは世界に「目覚める」ことです。知るは世界をゲットすることですが、信じるは世界にゲットされることです。知の領域はわれらがこちらから入っていきますが、信の領域はわれらがそこに入っていくことはできず、向こうからわれらに入ってくるのです。
 さてでは、信の領域があるとする人と、知の領域しかないとする人の間にどのように橋を架ければいいのでしょう。
 まず信の領域があるという人にはこう言うべきでしょう。あなたが「本願が存在する」と言うとき、それは本願に気づいたということであり、気づいていない人にとってはどこにも存在しないということを忘れてはいけません。ですから「本願なんて幻影にすぎない」と言われたとしても、「この人は本願に気づいていないのだ」と思えば、ムキになって立ち向かっていくことはなくなるでしょう。次に知の領域しかないという人に対してはこう言いましょう。「本願が存在する」という主張に「そんなものは幻影だ」と言いたくなるのは分かりますが、それはあなたが本願を知の領域にあると思っているからであり、自分は気づいていないが、ひょっとしたら信の領域があるのかもしれないと思えば、ムキになって反論することはなくなるのではないでしょうか、と。
 このように両者の対立を調停することはできますが、ただ、信の領域に気づくことと気づかないこととの間を調停することはできません。

                (第9回 完)

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