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聞すなわち信 [『教行信証』「信巻」を読む(その119)]

(11)聞すなわち信

さらに『涅槃経』から二文引かれます。

またのたまはく、「あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ(そのなかにすべて収められている)」と。以上

またのたまはく、「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者(さとりを得た人)を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」と。以上抄出

一つ目の文は、菩提の因はいろいろあるが、結局のところ信心一つに収まるということです。「正信偈」のことばでは「正定の因はただ信心なり(正定之因唯信心)」ということです。仏教の常識では、菩提の因はたとえば六波羅蜜すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の行にあり、信心というのはそれらの前提にすぎないとされますが、そうではなく、それらのすべては信心一つに収まるというのです。本願の信が得られたら、そのとき「煩悩を断ぜずして涅槃をうる」ことができるのだと。ただ、そんな「不可称不可説不可思議」のことが起るのも、それが如来回向の信心であるからこそであり、本願の信心はわれらがおこすものではなく、本願力によりおこるのであるということを忘れるわけにはいきません。

二つ目の文は「信不具足」について述べています。それに二つあり、一つは「聞よりして生じて、思より生ぜず」というのですが、これをどう理解すべきでしょう。普通には、ただぼんやり聞くだけで、自分でそれを咀嚼しようとしないということですが、親鸞としてはそういうことではないでしょう。すぐ頭に浮ぶのが「総序」の「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」ということばで、親鸞にとって聞と思はひとつです。これは第十八願成就文の「聞其名号(その名号を聞きて)」ということで、人の「こえ」を聞くのではなく、名号の「こえ」を聞くことです。この「聞」はすなわち「信」に他なりません。


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