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本願と信心はひとつ [「『正信偈』ふたたび」その76]

(7)本願と信心はひとつ

さて第二句「正定の因はただ信心なり」です。何の「正定の因」かといいますと、もちろん浄土へ往く往相と浄土から還る還相の因です。その因は信心であると言うのですが、ここで「うん?」となります。第一句で往相も還相も如来の回向であると言われたばかりだからです。浄土へ往くのもそこから還るのも本願の力によると言われたそのすぐ後に、それらのほんとうの因は信心であると言われるものですから、戸惑うことになるのです。しかし信心についてこれまで述べてきたことを思い返しますと、この謎はただちに氷解します。

本願を信じるとは、どこかにある本願をわれらがゲットすることではありません。そもそも本願というものはどこかにある「体(モノ)」ではなく、「用(はたらき)」です。そのはたらきがわが身の上に感じられる(本願のはたらきにゲットされる)ことが信心ですから、本願と信心は切り離すことができません。曇鸞は「火と木」の譬えでこう述べています、「たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」(『論註』)と。この火を本願、木をわれらの心とおきますと、「本願はわれらの心にその姿をあらわし、心を離れることがありません。本願は心を離れることがありませんから、本願と心はひとつとなり信心となります」ということです。

本願という法がわれら機において信心となってあらわれているのですから、本願が因であると言うのも、信心が因であると言うのもまったく同じことです。往相と還相の因は何かと言うとき、それを法からしていえば本願であり、それを機からしていえば信心であるということで、同じことを言っているのです。「他力による(往還回向由他力)」というのも、「信心による(正定之因唯信心)」というのも、同じことを別様に(コインの表と裏から)言っているだけのことです。


タグ:親鸞を読む
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