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「真理のことば」はどこから? [正信偈と現代(その43)]

(7)「真理のことば」はどこから?

 もう一度「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき」というヨハネ福音書の冒頭を思い起こしましょう。はじめに「真理のことば」があった、そしてそのことばは神に他ならない、というのですが、そのとき神はどこにいたのでしょう。キリスト教では神は世界を創造したのですから、世界の中にいたとは考えられません。としますと、どこか世界の外から「真理のことば」を発したということになります。弥陀の本願も同じでしょうか、南無阿弥陀仏の声も世界の外から届いたのでしょうか。
 「真理のことば」がすでに語られているとしますと、それは自分の中から出るのでないのは確かです。それは自分の外からやってくる。それが他力ということです。でも、だからといって、世界の外からやってくるのではないでしょう。もしそうだとしますと、こちらに虚偽の世界があり、その外に真理の世界があることになります。しかし「真理のことば」がすでに届いているからには、この世界がまったくの虚偽の世界ということはできません。すでにして真理の世界でもあります、まったくの真理の世界ではないとしても。どういうことか。
 これは清沢満之に倣って「有限と無限」として考えるべきです。
 こちらに有限の世界があり、あちらに無限の世界がある、のではありません。それでは無限の世界にはなりません。すべての有限をそのうちに包み込んでこそほんとうの無限です。有限から言えば、自分の外に無限があります。でも無限はすべての有限を包み込んでいますから、無限から言えば、有限はその中にあります。有限を「自分」に、無限を「真理のことば」におきかえますと、「真理のことば」は自分の外にあります。でもそれは自分を包み込んでいますから、自分は「真理のことば」の中にあります。
 「真理のことば」は自分の外からやってきます。でも、「真理ことば」から言いますと、自分はすでにその中にいるのです。

タグ:親鸞を読む
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